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2023.02.28
【水戸の梅まつり②】水戸が梅の名所になった理由にナットク! 学ぶ心も匂い立つ藩校・弘道館の梅さんぽ
偕楽園と並ぶ梅の名所が、藩校弘道館。偕楽園ほどの規模はありませんが、実は対で幕末の水戸のスピリットを表しています。梅の香りに包まれて、歴史さんぽを楽しみましょう。
梅が凛と咲き誇る江戸時代の総合大学
偕楽園と並ぶ水戸のもう一つの梅の名所が弘道館(こうどうかん)。弘道館は水戸藩第9代藩主の徳川斉昭(なりあき)が創設した藩校です。偕楽園にあれほどの梅を植えた斉昭ですから、もちろん弘道館にもすばらしい梅があります。文武修行の場だけあって、こちらの梅は偕楽園に比べて落ち着いた雰囲気。弘道館で張りつめた時を過ごしたあとは、のびやかな偕楽園で身心をリラックスさせるという斉昭の「一張一弛(いっちょういっかん)」の精神が感じられます。
正庁の縁に掲げられた扁額の「游於藝」は「げいにあそぶ」と読みます。論語の一説で、凝り固まらず、悠々と芸の道を究めよという意味が込められているそうです。
諸役会所と呼ばれる来館者控えの間。「尊攘(そんじょう)」の掛け軸は、幕末の動乱が激しくなってきた安政3年(1856)に、水戸藩の藩医・松延年に斉昭が書かせたものです。
江戸時代後半は教育ブーム。藩校だけでなく、私塾や武芸の道場がたくさんあったそうです。このかわいらしい似顔絵は、弘道館の初代教授頭取だった青山拙斎の私塾に通っていたこどもたち。愛情豊かな筆致に、教育の根本にあった慈しみの心を感じますね。
弘道館と偕楽園を作った徳川斉昭ってどんな人?
水戸の歴史的人物というと、水戸黄門のドラマで名高い徳川光圀(みつくに)や、最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が思い浮かびます。斉昭が生まれたのは光圀が亡くなってからちょうど100年後。そして慶喜の実父に当たります。幕藩体制が大きく揺らぐなか、斉昭は家柄だけでなく広い層の人材を育て登用する藩政改革に取り組み、成功しました。その政策の中心的な存在が弘道館でした。慶喜も弘道館で学んでいます。弘道館の精神は文武両道。学問と武芸の両方が重んじられました。大河ドラマなどの主役になったことはありませんが、別名「烈公」と呼ばれたほど強い個性と実行力を持った人物。斉昭を抜きには幕末を語れないほどの存在です。
かつての弘道館のスケールを感じながら梅さんぽ
今ではこぢんまりと感じられますが、当時の弘道館は広大でした。白壁の退出専用口を出たところに広がるのは、かつての文館の敷地跡。明治元年の弘道館の戦いで焼失し、現在は梅林になっています。
梅林に沿ってなおも進むと、梅の木立の向こうに八角形のお堂が見えてきます。建学の精神「弘道館記碑」を納めた八卦堂です。通常は非公開ですが、梅まつりの期間は扉が開けられ、中を見ることができます。
これが「弘道館記碑」です。高さ318㎝、幅191㎝、厚さ55㎝に及ぶ巨大な大理石に斉昭の書が刻まれています。東日本大震災で一部が崩れましたが、2013年11月に修復が完了しました。
八卦堂を過ぎると、鹿島神社が見えてきます。安政4年(1857)の弘道館の本開館式と同時に、常陸一の宮である鹿島神宮から分霊を勧請して遷座祭が行われました。境内は氏子の方々によってきれいに掃き清められ、清々しい空気が流れています。
鹿島神社の社殿に向かって左手にある梅の古木は、斉昭公お手植えと伝わるご神木の鈴梅です。今でも見事に花を咲かせます。
社殿の奥にある石碑は「種梅記碑」。斉昭公自身の手で、水戸に積極的に梅を植えた理由が記されています。
一、梅は他の花に先駆けて雪の中でも咲き、詩歌の題材となる。
二、梅の実には酸が含まれ、喉の渇きを取り、疲れを癒やす効果がある。
三、梅干しは保存が利き、防腐・殺菌効果もあるので、有事の際の非常食として役立つ。
さすが文武両道の教育で藩を立て直した名君。梅に魅せられた理由は、その美しさや香りだけでなく、実用としても役立つからだったのですね。
偕楽園と弘道館の梅はふたつでひとつ。ぜひ結んで歩いてみてくださいね。
text:松尾裕美
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