豊臣秀吉

豊臣秀吉は何をした人? 天下統一までの道のりをわかりやすく解説!

るるぶ&more.編集部 伝統文化 大河ドラマ 大阪城
るるぶ公式Twitter るるぶ公式Facebook るるぶ公式LINE はてなブックマーク Pocket

農民から天下人へ! 豊臣秀吉は、戦国時代を駆け上がった日本史上屈指のサクセスストーリーの主人公です。全国統一、太閤検地、刀狩令…。次々と改革を断行し、時代を変えた秀吉の魅力に迫ります。この記事では、秀吉の生涯と功績をわかりやすく解説!

Summary

豊臣秀吉がしたことを年表で解説

城

豊臣秀吉がしたことを理解するには、時系列で追うのが最もわかりやすい方法。秀吉は農民の出身から、天下人にまで上り詰めた人物として知られています。

ここでは、秀吉の生涯で重要なできごとを年表形式で解説します。

表

それぞれ豊臣秀吉がしたことを詳しく解説していきます。

1554年頃:織田信長に仕官

豊臣秀吉がしたことの始まりは、織田信長への仕官(しかん)でした。秀吉は農民の出身でしたが、持ち前の機転と行動力で信長に認められます。当初は雑用係のような立場でしたが、次第に重要な仕事を任されるようになりました。

城の築城や物資の調達などで才能を発揮し、信長の信頼を得ていきます。この時期の経験が、後の天下統一につながる基礎となりました。秀吉の出世物語は、この織田家への仕官から本格的に始まったといえます。

1582年:「山崎の戦い」で明智光秀を討つ

1582年に「本能寺の変(ほんのうじのへん)」が起こり、織田信長が明智光秀に討たれます。このとき秀吉は中国地方で毛利氏(もうりし)と戦っていましたが、すぐに引き返して光秀と対峙(たいじ)しました。これが「山崎の戦い(やまざきのたたかい)」です。また、この歴史的な大強行軍は、「中国大返し」とよばれています。

秀吉は素早い行動で光秀を討ち取り、信長の仇(かたき)を討つことに成功します。この戦いでの勝利により、秀吉は織田家の後継者争いで有利な立場を築きました。「山崎の戦い」は、秀吉が天下人への道を歩み始める重要な転換点となったできごとです。

1583年:「大坂城」の築城を開始

1583年、豊臣秀吉は「大坂城」の築城を開始しました。「大坂城」は織田信長の居城「安土城」の築城技術を用いて、巨大な城郭(じょうかく)として計画されます。秀吉は大坂を拠点とすることで、全国への影響力を強めようと考えました。

城の築城には多くの大名が動員され、秀吉の権力を示す象徴となります。「大坂城」は軍事的な拠点としてだけでなく、政治の中心地としても機能しました。この築城は、秀吉が天下統一を本格的に目指していることを示す行動でした。

1585年:関白に就任

1585年、豊臣秀吉は朝廷から関白(かんぱく)の地位を授かりました。関白とは天皇を補佐する最高位の役職です。秀吉は武力だけでなく、朝廷の権威を利用して全国の大名を従わせる戦略をとりました。

農民出身の秀吉が関白になることは異例でしたが、養子縁組などの方法を使って実現します。この関白就任により、秀吉は名実ともに日本のトップに立つことになりました。朝廷の権威を背景に、秀吉の天下統一事業は加速していきます。

1587年:九州平定とバテレン追放令

1587年、豊臣秀吉は九州を平定し、さらにバテレン追放令(ばてれんついほうれい)を発令しました。九州では島津氏(しまづし)が勢力をもっていましたが、秀吉は大軍を率いてこれを降伏させます。

同じ年にバテレン追放令を出し、キリスト教の宣教師(せんきょうし)を国外に追放することを命じました。秀吉は当初キリスト教に寛容でしたが、信者の増加や教会による日本人の奴隷売買が問題となったのです。この政策により、キリスト教の布教活動は大きく制限されることになります。

1588年:刀狩令を発令

1588年、豊臣秀吉は刀狩令(かたながりれい)を発令しました。刀狩令とは、農民から刀や槍などの武器を没収する命令です。この政策により、武士と農民の身分が明確に分けられることになります。

農民が武器をもたなくなったことで、一揆(いっき)が起こりにくくなりました。また、農民が農業に専念できる環境が整い、年貢(ねんぐ)の徴収が安定します。刀狩令は、秀吉が目指した兵農分離(へいのうぶんり)を実現するための重要な政策でした。

1590年:「小田原征伐」で天下統一を達成

1590年、豊臣秀吉は「小田原征伐(おだわらせいばつ)」を行いました。関東地方を支配していた北条氏(ほうじょうし)を攻め、降伏させることに成功します。この戦いの後、東北地方の大名たちも秀吉に従うことになりました。

これにより、秀吉は全国統一を達成します。織田信長が成し遂げられなかった天下統一を、秀吉が実現したのです。「小田原征伐」は、豊臣秀吉がしたことのなかでも最も重要なできごとのひとつといえます。

1590年代:太閤検地を全国で実施

1590年代にかけて、豊臣秀吉は太閤検地(たいこうけんち)を全国で実施しました。太閤検地とは、全国の土地を測量し、生産量を調査する政策です。土地の面積と収穫高(しゅうかくだか)を石高(こくだか)という統一基準で表しました。

秀吉は1582年頃から検地を開始し、1590年代前半から半ばにかけて全国でほぼ完了させます。この検地により、全国の生産力が正確に把握できるようになりました。年貢(ねんぐ)の徴収基準が明確になり、税収の安定化につながったのです。太閤検地は、秀吉が中央集権体制を確立するための重要な政策でした。

1592年・1597年:朝鮮出兵を実施

豊臣秀吉は1592年と1597年の2度にわたり、朝鮮に大軍を送りました。1回目の出兵は「文禄の役(ぶんろくのえき)」、2回目は「慶長の役(けいちょうのえき)」とよばれます。秀吉は明(みん/中国)を征服しようと考え、朝鮮半島に軍を進めました。

しかし、朝鮮の抵抗や明の援軍により、戦いは長期化します。結局、目的を達成できないまま秀吉が亡くなり、日本軍は撤退しました。朝鮮出兵は多くの犠牲を出し、日本と朝鮮の関係に大きな影響を与えたできごとです。

1598年:「伏見城」で死去

1598年、豊臣秀吉は「伏見城(ふしみじょう)」で亡くなりました。秀吉は62歳または63歳での死去と考えられています。死因は病死とされていますが、詳しいことはわかっていません。

秀吉の死後、幼い息子の秀頼(ひでより)が豊臣家を継ぎました。しかし、後に徳川家康(とくがわいえやす)が実権を握り、豊臣家は滅亡することになります。秀吉の死は、戦国時代から江戸時代へと移り変わる転換点となりました。



農民から天下人へ|出世ストーリーを詳しく解説

畑のイメージ

豊臣秀吉がしたことのなかで最も注目されるのが、農民から天下人への出世です。秀吉は身分の低い立場から始まり、自らの才能と努力で日本のトップに上り詰めました。

ここでは、秀吉がどのようにして天下人になったのか、その道のりを解説します。

農民出身からの成り上がり

豊臣秀吉は1537年頃、尾張国(おわりのくに/現在の愛知県)の農民の子として生まれました。幼名は日吉丸(ひよしまる)といいます。当時の日本では、生まれた身分によって将来が決まる社会でした。

しかし、秀吉は農民という低い身分に甘んじることなく、武士になることを目指します。若い頃から奉公(ほうこう)に出て、さまざまな経験を積みました。この時期に身につけた機転や人との接し方が、後の出世につながっていきます。

織田信長のもとで頭角を現す

織田信長に仕えた秀吉は、戦場での武功よりも、築城や交渉などの能力で評価されました。特に有名なのが、「墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)」の築城です。秀吉は短期間で城を築き上げ、信長の戦略に大きく貢献しました。

また、調略(ちょうりゃく)や外交交渉でも才能を発揮します。敵対する勢力を味方に引き入れる交渉術は、秀吉の大きな武器となりました。こうした戦い以外の能力が、後の天下統一に生きることになります。

「本能寺の変」後に実権を掌握

「本能寺の変」で織田信長が討たれた後、秀吉は「清須会議(きよすかいぎ)」で巧みな政治手腕を発揮しました。秀吉は信長の孫である三法師(さんぼうし)を後継者として推し、自らは後見人の立場を確保します。

その後、柴田勝家(しばたかついえ)や徳川家康といった有力な武将たちとの争いを制していきました。秀吉は戦いだけでなく、婚姻関係や領地の配分などを使って大名たちを従わせていきます。こうした政治的な駆け引きにより、秀吉は織田家の実権を握ることに成功しました。

関白就任で権力を確立

秀吉が天下人として権力を手に入れた理由は、朝廷の権威を利用したことです。関白という地位を得ることで、全国の大名に対して「朝廷の命令」という形で指示を出せるようになりました。

さらに、豊臣という姓を朝廷から賜(たまわ)り、公家(くげ)としての地位も手に入れます。武力と権威の両方を手にした秀吉は、誰も逆らえない存在となりました。秀吉の出世物語は、農民から関白へという日本史上類を見ない成り上がりの物語として、現代まで語り継がれています。

太閤検地とは

田園

豊臣秀吉がしたことのなかでも、特に重要な政策が太閤検地(たいこうけんち)です。太閤検地とは、全国の土地を統一基準で調査した政策のことをいいます。秀吉は1582年頃から検地を開始し、1598年に完成させました。この政策により、秀吉は全国の土地と生産力を正確に把握し、中央集権体制の基礎を築くことに成功します。

全国の土地を測量

太閤検地が画期的だった理由のひとつが、測量基準の統一です。それまでの土地調査は、各地の大名が独自の基準で行っていました。そのため、同じ広さの土地でも地域によって表し方が異なり、正確な比較ができなかったのです。

秀吉は測量の基準を全国で統一しました。6尺3寸(約191cm)を1間とし、1間四方を1歩、300歩を1反(または30歩を1畝(せ)、10畝を1反)と定めます。また、秀吉の役人が直接現地に出向いて測量を行い、田畑は上・中・下・下々の4つの等級に分けられました。こうした統一基準により、北は東北から南は九州まで、すべての土地を同じ物差しで測ることが可能になったのです。

石高制で統一基準を確立

太閤検地のもうひとつの革新が石高制(こくだかせい)の導入です。石高制とは、土地の価値を米の収穫量で表す制度のことをいいます。それまでの貫高制(かんだかせい)では、土地の価値を銭の単位で表していましたが、米の価格は変動するため不安定でした。

石高制では、1段あたりの標準収穫量(石盛/こくもり)を等級ごとに決めます。たとえば上田1段は1石5斗、中田1段は1石3斗といった形です。この石盛に土地の面積をかけることで、その土地全体の生産力(石高/こくだか)が算出されました。さらに、米を量る升(ます)も京都の京升(きょうます)に統一されます。石高制により、大名の力も石高で表されるようになり、たとえば「100万石の大名」といった表現が使われるようになりました。

刀狩令とは

刀を持つ侍

豊臣秀吉がしたことのもうひとつの重要な政策が刀狩令(かたながりれい)です。刀狩令とは、1588年に発令された農民から武器を回収する命令のことをいいます。戦国時代には、村の農民も自衛のために武器をもつことが普通でした。

しかし、全国統一を目前に控えた秀吉にとって、武装した農民の存在は新たな混乱を招く危険がありました。そこで秀吉は刀狩令を発令し、社会の安定化を図ったのです。

農民から武器を没収

刀狩令では、農民がもつ刀や槍、弓、鉄砲などの武器を差し出すよう命じられました。秀吉は表向きの理由として、『集めた武器を溶かして「方広寺(ほうこうじ)」の大仏や釘に作り替え、農民の来世での救済につなげる』と説明しています。

しかし、武器の回収方法は村ごとの自己申告制でした。役人が各家を回って武器を探すのではなく、村がまとめて差し出す形だったのです。そのため、実際にはすべての武器が回収されたわけではありません。村には鉄砲や刀が残り続け、江戸時代になっても村の鉄砲の数が武士のもつ鉄砲より多い地域もあったほどです。

兵農分離を実現

刀狩令の真の目的は、武器をもつ権利を武士だけのものとすることでした。これにより、誰が武士で誰が農民なのかという身分の境界線が明確になります。戦国時代には、村に住みながら、戦いのときだけ武装する半農半士(はんのうはんし)とよばれる人々が多く存在していました。

刀狩令により、武器を持ち続ける者は武士として城下町に住み、武器を手放す者は農民として村で農業に専念することになります。秀吉はこの政策を通じて、戦う者と耕す者の役割を固定し、農民が武士になって身分を変える下剋上(げこくじょう)を防ごうとしたのです。

朝鮮出兵の背景と影響

波

豊臣秀吉がしたことのなかで、最も議論をよぶのが朝鮮出兵です。秀吉は全国統一を果たしたあと、なぜ海を越えて戦いを続けたのでしょうか。また、この出兵は日本や朝鮮にどのような影響を与えたのでしょうか。

ここでは、朝鮮出兵が行われた背景と、その後に残した影響について解説します。

出兵の背景と目的

豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った理由は、明確にはわかっていません。ただし、いくつかの説が考えられています。

一つ目は、土地不足の問題です。全国統一後、秀吉は各地の武将に領地を与える必要がありましたが、日本国内には十分な土地がありませんでした。新しい領土を手に入れることで、武将たちへの恩賞を確保しようとしたという説です。

二つ目は、武将たちの不満を解消する狙いです。天下統一後も、戦いで武功を立てて出世したいと考える武将は多くいました。朝鮮出兵により、彼らに活躍の場を与えようとした可能性があります。

三つ目は、ヨーロッパ勢力への対抗です。当時、スペインはフィリピンを植民地にしていて、さらに中国への進出を狙っていました。秀吉はこうした動きを警戒し、先に明を征服しようと考えた可能性が指摘されています。

日本と朝鮮への影響

朝鮮出兵は、日本と朝鮮の双方に大きな影響を与えました。まず、この戦いで多くの人々が命を落とします。兵士だけでなく、戦場となった朝鮮半島の人々も大きな被害を受けました。

日本国内では、大名たちの財政が悪化します。遠征には莫大な費用がかかり、多くの大名が経済的に苦しむことになりました。この財政難が、後の豊臣政権の衰退につながったともいわれています。特に、戦いに参加した武将たちの間では不満が高まり、豊臣家への忠誠心が揺らぐきっかけとなりました。

一方、朝鮮では日本への反感が強まりました。この感情は長く続き、日本と朝鮮の関係に影を落とすことになります。ただし、文化的な面では、朝鮮から連れてこられた陶工たちが日本で陶磁器の技術を伝え、有田焼や薩摩焼などの伝統工芸が発展するきっかけとなりました。秀吉の死により出兵は終わりましたが、その影響は後の時代まで続いたのです。

豊臣秀吉の性格と人物像

豊臣秀吉

豊臣秀吉がしたことを理解するには、彼の性格を知ることが大切です。秀吉は農民の出身でありながら、天下人にまで上り詰めました。その背景には、優れた能力と魅力的な人柄がありました。

秀吉のもっていた能力

豊臣秀吉の最大の特徴は、人の心をつかむ能力でした。秀吉は身分の高い者にも低い者にも分け隔てなく接し、誰からも愛される人柄を持っていました。この能力は「人たらし」とよばれ、敵でさえも味方に変えてしまう力がありました。

また、秀吉は気配りの達人でもありました。織田信長に仕えていた頃、秀吉は常に信長が何を望んでいるかを観察し、先回りして行動していたのです。こうした気配りが信長に認められ、次第に重要な仕事を任されるようになりました。

さらに、秀吉は発想力と行動力にも優れていました。「墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)」の築城では、短期間で城を完成させます。困難な状況でも諦めず、独自の方法で解決する力が秀吉にはあったのです。

代表的なエピソード

秀吉の性格を表すもっとも有名なエピソードが、草履取り(ぞうりとり)の話です。ある寒い冬の夜、信長が外に出ようとすると、秀吉が温かい草履を差し出しました。秀吉は自分のふところで草履を温めていたのです。

信長が外に出ることを予測し、寒い夜だからと草履を温めておく。この細やかな心遣いに感心した信長は、それ以降秀吉に、特別に目をかけるようになりました。この草履取りのエピソードは、農民出身の秀吉が、気配りと観察力で信長の心をつかんだ瞬間を象徴する話として、現代まで語り継がれています。
だい

まとめ|豊臣秀吉がしたことを振り返る

豊臣秀吉は、農民から天下人へと駆け上がった日本史上でも稀有(けう)な人物です。全国統一を成し遂げ、太閤検地や刀狩令によって近世日本の基盤を築きました。これらの政策は、混乱した戦国時代に秩序をもたらし、江戸時代へとつながる社会の仕組みを作り上げたのです。

秀吉の成功を支えたのは、人の心をつかむ能力と優れた気配りでした。身分に関係なく人と接し、敵さえも味方に変える力は、多くの武将たちを惹きつけました。草履取りのエピソードに象徴されるように、観察力と行動力で信頼を勝ち取っていったのです。

しかし、朝鮮出兵という失敗も忘れてはなりません。この無謀な戦いは多くの犠牲を生み、豊臣政権の衰退を早める結果となりました。秀吉の生涯は、成功と挫折の両面から、リーダーシップの本質を私たちに問いかけています。

photo:pixta

●店舗・施設の休みは原則として年末年始・お盆休み・ゴールデンウィーク・臨時休業を省略しています。
●掲載の内容は取材時点の情報に基づきます。内容の変更が発生する場合がありますので、ご利用の際は事前にご確認ください。


るるぶ公式Twitter るるぶ公式Facebook るるぶ公式LINE はてなブックマーク Pocket
記事トップに戻る
この記事に関連するタグ

編集部のおすすめ

ページトップへ戻る

検索したいキーワードを入力してください