坂本龍馬は何をした人? 功績や人物像をわかりやすく解説
坂本龍馬は「何をした人」なのか、「薩長同盟」や「大政奉還」は本当に龍馬の功績なのか…? この記事では、脱藩から海援隊、「近江屋事件」までを年表で追い、坂本龍馬の功績や人物像、実は「何もしていない」説の真偽などについて、わかりやすく解説します。
坂本龍馬がしたことを年表で解説

坂本龍馬の生涯は、日本の歴史を大きく動かしたできごとの連続です。「坂本龍馬が何をした人なのか」を理解するために、まずは年表で生涯の流れを押さえましょう。
- 天保6年(1835):土佐藩に生まれる
- 嘉永6年(1853):江戸へ剣術修行、黒船来航を目撃
- 文久2年(1862):脱藩、勝海舟に弟子入り
- 慶応元年(1865):「亀山社中」を設立
- 慶応2年(1866):「薩長同盟」を仲介、「寺田屋事件」
- 慶応3年(1867):「海援隊」を結成、「船中八策」、「大政奉還」
- 慶応3年(1867):「近江屋事件」で暗殺
それぞれ詳しく解説していきます。
天保6年(1835):土佐藩に生まれる
坂本龍馬は、天保6年(1835)に土佐藩(現在の高知県)で生まれました。龍馬の家は「郷士(ごうし)」という身分で、武士と農民の中間にあたる階層でした。当時の社会には厳しい身分制度があり、身分が上の武士から差別を受けることもありました。
龍馬はその理不尽さを幼い頃から肌で感じて育ちました。この経験が、後に身分の壁を越えて行動する龍馬の原点になったといわれています。
嘉永6年(1853):江戸へ剣術修行、黒船来航を目撃
嘉永6年(1853)、龍馬は剣術修行のため江戸へ向かいます。江戸では北辰一刀流の道場に入門し、腕を磨きました。同じ年、アメリカのペリー提督が黒船を率いて日本の浦賀沖に現れます。龍馬は品川の沿岸警備に動員され、このできごとを通じて外国の脅威を強く感じたとされています。
この経験が、龍馬を剣の道から「日本の未来」へと向かわせる転機になったといわれています。
文久2年(1862):脱藩、勝海舟に弟子入り
文久2年(1862)、龍馬は藩の許可を得ずに土佐藩を飛び出します。これを「脱藩(だっぱん)」といいます。当時、脱藩は死罪になることもある重大な行為でした。それでも龍馬は「藩のためではなく、日本全体のために動きたい」という強い思いをもっていました。
その後、軍艦奉行並(ぐんかんぶぎょうなみ)という役職で、海軍の知識をもつ勝海舟(かつ
かいしゅう)と出会い、弟子入りします。 勝海舟のもとで、龍馬は海軍や貿易の知識を学び、後の活動の土台を作りました。
慶応元年(1865):「亀山社中」を設立
慶応元年(1865)、龍馬は長崎に「亀山社中(かめやましゃちゅう)」を設立します。「亀山社中」は、日本ではじめての商社ともよばれる組織。藩に関係なく仲間を集め、武器や船の売買を仲介しました。特に、対立していた薩摩藩(さつまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)の間で物資をやりとりする橋渡し役を担いました。
「商売」と「政治」を組み合わせたこの仕組みは、当時としては非常に画期的なものでした。
慶応2年(1866):「薩長同盟」を仲介、「寺田屋事件」
慶応2年(1866)、龍馬は「薩摩藩(さつまはん)」と「長州藩(ちょうしゅうはん)」の同盟を仲介します。
この同盟には、西郷隆盛・木戸孝允(たかよし)・小松帯刀(たてわき)・中岡慎太郎など複数の人物が関わっていて、龍馬はその橋渡し役の一人だったとされています。しかし同年、龍馬は京都の旅館「寺田屋」で幕府の役人たちに襲撃されました。間一髪で逃げ延びましたが、龍馬の命が常に危険にさらされていたことがわかるできごとです。
慶応3年(1867):「海援隊」を結成、「船中八策」、「大政奉還」
慶応3年(1867)は、龍馬の活躍が最も実を結んだ一年です。
まず「亀山社中」をさらに発展させた「海援隊(かいえんたい)」を結成し、貿易や運輸、軍事支援を行う組織として整えました。さらに、船の上で考えたとされる「船中八策(せんちゅうはっさく)」という提言をまとめます。これは「将軍が政権を朝廷に返す」「議会をつくる」など、新しい日本の形を示した重要な文書です。
同年10月には、15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が「大政奉還(たいせいほうかん)」を実行しました。 約260年続いた江戸幕府の歴史が、ここで幕を閉じたのです。
慶応3年(1867):「近江屋事件」で暗殺
「大政奉還」からわずか1ヵ月後の慶応3年(1867)11月15日、龍馬は京都の「近江屋(おうみや)」という宿で何者かに襲われ、命を落とします。
この日は数え年で33歳の誕生日でもありました。 誰が龍馬を殺したのかは今も謎のままで、さまざまな説が残っています。新しい日本の夜明けを目前にして亡くなった龍馬は、多くの人に惜しまれました。
坂本龍馬が何をした人かを考えるとき、この劇的な最期もまた、その生涯を語るうえで欠かせないできごとのひとつです。
「薩長同盟」の仲介

「薩長同盟」とは、慶応2年(1866)に薩摩藩と長州藩の間で結ばれた政治的・軍事的な協定のことです。当時、この2つの藩は武力衝突を起こすほど激しく対立していました。その仲を取り持ったのが、坂本龍馬と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)だとされています。
龍馬は「亀山社中(海援隊)」を通じて、薩摩藩の名義で武器を購入し長州藩へ届けるなど、両藩の利益をつなぐ役割を果たしたといわれています。こうした下地があった上で、同年1月に京都の「小松帯刀(こまつたてわき)邸」にて協定が結ばれました。この同盟が、後の倒幕・明治維新へとつながる大きな転換点となりました。
「船中八策」と「大政奉還」
「船中八策」
「船中八策」とは、慶応3年(1867)に坂本龍馬が土佐藩の船の中で新しい国の仕組みについて提案したとされる内容のことです。後世に「八策」としてまとめられたとされていて、そのおもな内容は下記のとおりです。
- 将軍が政権を朝廷に返す(大政奉還)
- 議会を設けて広く意見を集める
- 優れた人材を役職に登用する
- 外国と正しく国交を結ぶ
- 憲法を制定する
- 海軍を強化する
- 天皇を守る新しい軍隊を編成する
- 世界に通用する貨幣・物価の制度を整える
これらは後の明治政府の方針とも重なる、当時としては非常に先進的な内容でした。この提案を受けた土佐藩の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が動いたことで、後の「大政奉還」へとつながったとされています。
ただし、「船中八策」の原本は現存しておらず、近年の研究では後世に作られた可能性を指摘する声もあります。詳細については今も議論が続いています。
「大政奉還」
「大政奉還(たいせいほうかん)」とは、慶応3年(1867)10月14日に起きた、日本の政治の仕組みが大きく変わったできごとです。
それまで約260年にわたって日本の政治を取り仕切っていたのは、徳川家を中心とする江戸幕府でした。その15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、政治を行う権限を天皇(朝廷)へ返したのが「大政奉還」です。
この流れをつくったのは土佐藩で、前藩主・山内容堂(やまうちようどう)が徳川慶喜に返上を申し入れ、慶喜がこれを受け入れました。坂本龍馬はこの「大政奉還」を、戦争によらず平和的に新しい日本をつくるための方法として、強く望んでいたといわれています。
「海援隊」の創設
「海援隊(かいえんたい)」とは、慶応3年(1867)に、坂本龍馬が隊長となって発足した組織のことです。貿易や物資の運搬を行う会社としての側面と、海軍としての側面を兼ね備えていました。
「海援隊」の前身は、慶応元年(1865)に長崎で結成された「亀山社中(かめやましゃちゅう)」です。その後、龍馬たちの活動に注目した土佐藩が「亀山社中」を自藩の組織として取り込み、「海援隊」と改称しました。
これにより龍馬は脱藩の罪を許され、隊長に就任しました。隊員には後に外務大臣となる陸奥宗光(むつむねみつ)など、明治時代に活躍した人材も含まれていました。龍馬の暗殺後は求心力を失い、慶応4年(1868)4月に解散しています。
坂本龍馬の性格と人物像

坂本龍馬は幕末の歴史を動かした人物として知られていますが、その人柄も多くの人を引きつけた大きな要因だと言われています。龍馬の性格と人物像を3つの視点から見ていきましょう。
身分にとらわれない自由な気質と行動力
坂本龍馬は当時の厳しい身分制度を気にせず、自分の信念に従って行動した人物でした。藩の許可なく脱藩するという重大な決断も、「日本全体のために動きたい」という思いからだったとされています。
薩摩藩・長州藩・土佐藩と藩の垣根を越えて人脈を築けたのも、身分や立場にとらわれない龍馬ならではの気質があったからだといわれています。
姉・乙女への手紙から見える人間味
龍馬は3歳年上の姉・乙女(とめ)をとても慕っていて、生涯にわたって数多くの手紙を送り続けました。その手紙には、勝海舟を「日本第一の人物」と書いて弟子入りの喜びを伝えたり、お金に困っている状況をユーモアを交えて報告したりと、飾らない素直な言葉が並んでいます。歴史の大舞台で活躍する一方で、姉に本音を打ち明ける人間らしい一面がよく伝わってきます。
敵をも味方にした「人たらし」の一面
坂本龍馬は当初、開国論者であった勝海舟を斬りに行ったという逸話が広く知られています。しかし実際に話を聞くうちに感銘を受け、その場で弟子入りを願い出たとされています。なお、この逸話は勝海舟本人が語ったものですが、近年の研究では事実かどうか疑問視する声もあります。
敵対していた相手すら味方に引き込んでしまう龍馬の人柄は、多くの同時代人からも高く評価されていたと伝えられています。この「人たらし」ともいえる魅力が、藩を越えた幅広い人脈につながったと考えられています。
坂本龍馬がすごいといわれる理由

坂本龍馬がすごいといわれる理由は、大きく3つあります。
1つ目は、藩や身分の枠を越えて行動した点です。当時の武士は自分の藩のために動くのが当たり前でしたが、龍馬は日本全体のために動き続けました。
2つ目は、武力衝突をできる限り避けながら、新しい政治体制を模索した点です。「大政奉還」という形で、できる限り血を流さずに時代を変えることを目指したとされています。
3つ目は、武士でありながら商売と政治を組み合わせた先進的な発想を持っていた点です。「亀山社中(海援隊)」の設立は、当時としては異例の取り組みでした。
わずか33年という短い生涯でこれだけの行動を起こしたことが、今も多くの人に「すごい」といわれる理由だと考えられています。
坂本龍馬が「何もしていない」説は本当?

近年、「坂本龍馬は実は何もしていない」という声が一部で広まっています。多くの人が知っている龍馬のイメージは、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』によって作られた部分が大きく、史実とは異なる点も含まれていると、研究者の間で指摘されています。
たとえば「薩長同盟」における龍馬の役割は、小説で描かれるような「主役」ではなく、「協力者」にとどまっていたとする見方もあります。
「何もしていない」という表現は言い過ぎという意見もありますが、実像については今も研究が続いています。龍馬を正しく理解するためには、小説の世界と史実を区別して考えることが大切です。
まとめ|坂本龍馬は何をした人?
坂本龍馬は、天保6年(1835)に土佐藩に生まれ、慶応3年(1867)にわずか33歳で暗殺された幕末の志士です。
脱藩という重大な決断をしてまで藩の枠を越えて行動し、「亀山社中」、「海援隊」の創設、「薩長同盟」への関与、「大政奉還」の流れへの働きかけなど、短い生涯のなかで数多くのできごとに関わったとされています。
一方で、近年の歴史研究により、小説やドラマで描かれてきた龍馬像と史実の間には、ずれがある部分も指摘されています。功績の詳細については今も議論が続いていて、正確な実像はまだ解明の途中にあります。
それでも、身分や藩の枠にとらわれず、戦争によらない平和的な方法で新しい日本をつくろうとした龍馬の姿勢は、多くの人の心をひきつけ続けています。「坂本龍馬が何をした人か」という問いへの答えは、これからも歴史研究とともに深まっていくといえるでしょう。
photo:pixta
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