空海

空海は何をした人? その功績や生涯をわかりやすく解説

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歴史的背景を知ると、おでかけがもっと楽しくなるはず! この記事では“空海”について、何をした人なのかを簡単に紹介します。お遍路や高野山で、名前は聞いたことがあるけれど、詳しくは知らない人も多いのでは。空海の生涯を年表で追い、真言密教の伝来や高野山開創、満濃池(まんのういけ)修築などの功績や、最澄(さいちょう)との関係性までわかりやすく解説します。

Summary

空海は何をした人? まずは年表で解説

空海の像

空海の生涯は、日本の宗教と文化を大きく動かしたできごとの連続です。「空海が何をした人なのか」を理解するために、まずは年表で生涯の流れを押さえましょう。

  • 宝亀5年(774):讃岐国(現在の香川県)に生まれる
  • 延暦10年(791):上京して大学で学ぶ
  • 延暦23年(804):遣唐使として唐へ渡る
  • 大同元年(806):帰国し真言密教を伝える
  • 弘仁7年(816):高野山を開く
  • 弘仁12年(821):讃岐の満濃池の修築を指揮する
  • 弘仁14年(823):嵯峨天皇より「東寺」を朝廷から賜る
  • 天長5年(828):「綜芸種智院」を創設する
  • 承和2年(835):高野山にて入定する
  • 延喜21年(921):醍醐天皇から「弘法大師」の諡号を贈られる

それぞれ詳しく解説していきます。

宝亀5年(774):讃岐国(現在の香川県)に生まれる

空海は、宝亀5年(774)に讃岐国屛風浦(現在の香川県善通寺市)で生まれたとされています。幼名は眞魚(まお)と伝えられていて、父は地方豪族の佐伯氏、母は中央の貴族・阿刀氏出身の玉依御前(たまのいごぜん)。地方豪族の家とはいえ、当時の中央政界とつながる血筋をもつ家庭環境でした。

幼い頃から聡明だったと伝えられていて、学問への関心を早くから示していたとされています。讃岐の自然豊かな土地で育ったこの幼少期が、後に唐へ渡って真言密教を学び、日本へ持ち帰る空海の出発点となりました。

延暦10年(791):上京して大学で学ぶ

空海は、延暦10年(791)頃に18歳で都(長岡)へ上り、大学寮に入って学んだとされています。当時の大学寮は官僚を目指す貴族の子弟が学ぶ教育機関であり、空海もここで儒教の経典など中央の高度な学問にふれました。母方の伯父・阿刀大足(あとのおおたり)から漢学の手ほどきを受けていたこともあり、優れた素質を発揮したと伝えられています。

しかし学問が進むにつれ、空海の関心は次第に仏教へと向かっていきました。やがて大学を離れ、山林を歩いて修行する道を選んだとされています。官僚への安定した道筋を捨てたこの決断が、後の僧侶・空海への第一歩となりました。

延暦23年(804):遣唐使として唐へ渡る

空海は、延暦23年(804)に遣唐使の一員として唐へ渡りました。同じ船団には後に天台宗を開く最澄(さいちょう)もいましたが、空海の船は暴風雨に遭って福州赤岸鎮(ふくしゅうせきがんちん)に漂着するという厳しい船出だったと伝えられています。長安にたどり着いた空海は、当初20年とされた留学期間にもかかわらず、短期間で密教の教えを集中的に学びました。この入唐が、後に日本へ真言密教を伝える大きな転機となりました。

大同元年(806):帰国し真言密教を伝える

空海は、大同元年(806)に唐から日本へ戻りました。長安では「青龍寺」の恵果(けいか)阿闍梨から密教の正統な後継者として認められ、多くの経典・仏具・曼荼羅を持ち帰っています。当初20年の予定だった留学をわずか2年で切り上げての帰国は予定よりも大幅に早かったのだとか。このとき日本にもたらされた真言密教が、後の真言宗の出発点となりました。

弘仁7年(816):高野山を開く

空海は、弘仁7年(816)に嵯峨天皇の許しを得て、紀伊国の高野山(現在の和歌山県高野町)を真言密教の修行道場として開きました。人里離れた山中を選んだのは、密教の修行に集中できる清浄な土地を求めたためとされています。後に金堂や塔などの寺院の建物群(伽藍)が整備され、真言宗の総本山となる「金剛峯寺」の原点となりました。現在も多くの参拝者や旅行者が訪れる高野山は、空海が開いたこの修行の地から始まっています。

弘仁12年(821):満濃池の修築を指揮する

空海は、弘仁12年(821)に朝廷の命を受け、讃岐国の満濃池(まんのういけ)の修築工事を指揮しました。満濃池は日本でも有数のかんがい用ため池でしたが、決壊して長く放置されていました。朝廷から派遣された役人だけでは難航していた工事が、空海が指揮を執るとわずか数ヵ月で完成したと伝えられています。

故郷の人々から厚い信頼を集めていた空海が指揮を執ることで、人手と協力が一気に集まったことが成功の要因とされています。

弘仁14年(823):「東寺」を朝廷から賜る

空海は、弘仁14年(823)に嵯峨天皇から京都の「東寺(教王護国寺)」を賜りました。「東寺」は平安京の正門である羅城門の東側に建てられた官立寺院で、空海はここを真言宗の根本道場として整えました。山中の修行地である高野山に対して、東寺は都での布教と教育の中心となります。二つの拠点をもつことで、真言密教は朝廷と一般社会の双方に広がっていきました。

天長5年(828):「綜芸種智院」を創設する

空海は、天長5年(828)頃に京都で「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」という学校を開きました。当時の教育機関は、貴族の子弟が学ぶ大学寮など、限られた人にしか開かれていませんでした。一方で「綜芸種智院」は身分を問わず誰でも学べる点が画期的で、仏教だけでなく儒教や道教も総合的に教えた、日本ではじめての庶民にも開かれた私立学校とされています。学問を広く社会に開こうとした空海の理念がよく表れた事業です。

承和2年(835):高野山にて入定する

空海は、承和2年(835)3月21日、62歳の時に高野山に入定(にゅうじょう)しました。真言宗では空海は、今も瞑想を続けて人々を救い続けているとされていて、これを「入定」とよびます。高野山の「奥之院」には空海をまつる御廟(ごびょう)とよばれる聖なる建物が設けられ、現在も毎日朝夕に食事が運ばれ続けています。肉体的な死を超えた信仰のかたちが、空海への厚い崇敬を1200年以上守り続けてきました。

延喜21年(921):「弘法大師」の諡号を贈られる

空海は、入定して86年後の延喜21年(921)に醍醐天皇から「弘法大師」という諡号(しごう)を贈られました。諡号とは、功績のあった人物に贈られる称号のことです。つまり「空海」は生前の名で、「弘法大師」は入定してから与えられた呼び名であり、両者は同じ人物を指します。「お大師さま」と親しみを込めてよばれることも多く、四国八十八ヶ所霊場をめぐるお遍路の信仰の対象でもあります。「弘法大師」という名が広く根づいたことで、空海の存在は日本人の暮らしと信仰に深く溶け込みました。

「真言宗」とは

真言宗(しんごんしゅう)とは、空海が9世紀の初めに日本で開いた仏教の宗派です。唐から持ち帰った密教の教えをもとに、大日如来(だいにちにょらい)を本尊とし、「この身のまま仏になれる」という即身成仏(そくしんじょうぶつ)の思想を特徴とします。修行では、真言(しんごん)とよばれる仏の言葉を唱え、手で印(いん)を結び、心に仏を思い描くという三つの行(三密)を組み合わせます。

総本山は和歌山県の高野山「金剛峯寺」で、京都の「東寺」も根本道場として知られています。空海の入定後も弟子たちによって受け継がれ、現在も日本仏教を代表する宗派のひとつとして多くの信徒を抱えています。

高野山の開創

高野山の開創とは、空海が弘仁7年(816)に嵯峨天皇から賜った和歌山県の高野山に、真言密教の修行道場を開いたことを指します。

標高約800mの山上盆地に位置する高野山は、蓮の花のような八葉(はちよう)の峰々に囲まれているとも例えられ、密教の修行に理想的な土地と空海が見定めたとされています。空海はここを世俗から離れた純粋な修行の場として整え、後に真言宗の総本山「金剛峯寺」となる土台を築きました。

開創から1200年以上が経った今も、高野山は真言宗の聖地として信仰を集めています。2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産に登録され、国内外から多くの旅行者を迎える地となっています。

「綜芸種智院」の創設

「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」とは、空海が天長5年(828)頃に京都に開いた、身分を問わず学べることを掲げた教育機関のこと。当時の教育は貴族の子弟向けに限られ、身分の低い人々が学ぶ場はほとんどありませんでした。空海は「学問は身分や貧富にかかわらず開かれているべきだ」という理念のもと、仏教・儒教・道教を総合的に教える私塾を設立したと伝えられています。学費や食事も無償だったとされています。

「綜芸種智院」は空海の死後しばらくして廃絶し、運営実態については史料が限られていますが、身分の壁を越えて学びを開くという理念は、現代の教育観にも通じるものとして高く評価されています。

満濃池の修築

満濃池

満濃池(まんのういけ)の修築とは、空海が弘仁12年(821)に讃岐国(現在の香川県まんのう町)の、決壊したため池を改修した工事のことです。

満濃池は日本でも有数のかんがい用ため池でしたが、弘仁9年(818)頃に決壊し、朝廷から派遣された役人だけでは工事が難航していました。そこで朝廷の命を受けて現地に赴いたのが、讃岐国出身の空海です。故郷の人々からの厚い信頼を集めていた空海が指揮を執ることで多くの労働者が集まり、わずか数ヵ月で修築を成し遂げたと伝えられています。

僧侶でありながら社会の困難を直接救う仕事を担ったこの事業は、空海の「人々の暮らしに尽くす」という姿勢を象徴するできごとです。

空海の性格と人物像

空海

空海は日本の宗教と文化を大きく変えた人物として知られていますが、その人柄や生き方も多くの人を引きつけた要因だといわれています。ここでは空海の人物像を3つの視点からご紹介します。

  • 身分にとらわれず仏道を志した探究心
  • 庶民の救済に尽くした実践の人
  • 書や文学にも秀でた多才な文化人

それぞれ見ていきましょう。

身分にとらわれず仏道を志した探究心

空海は、生まれた身分や周囲の期待にとらわれず、自分の信じた道を歩み続けた人物でした。地方豪族の家に生まれ、官僚としての安定した未来が用意されていながら、それを潔く捨てて仏教の道へ進みます。「自分が本当に学ぶべきものは何か」を真摯に問い続ける姿勢が、空海を山林修行や唐への留学へと突き動かしたとされています。

未知の世界に踏み出すことを恐れず、納得できる答えを得るまで自ら確かめにいくこの探究心は、空海の人物像を支える根幹だといわれています。

庶民の救済に尽くした実践の人

空海は、教えを言葉で説くだけでなく、自ら手を動かして人々の暮らしに役立つことに尽くした実践の人でした。

仏の教えを学ぶことと、目の前の人々の苦しみを救うことは別のものではない、というのが空海の考え方だったといわれています。だからこそ、ため池の修築という土木事業に身を投じたり、誰もが学べる学校を開いたりと、宗教の枠を超えた行動に踏み出すことができたとされています。

「困っている人がいるなら自分にできることをする」という姿勢が、空海が単なる僧侶以上の存在として、人々に慕われた理由だといわれています。

書や文学にも秀でた多才な文化人

空海は、宗教や社会事業のみならず、書や文学の分野でも当代一流の才能を発揮した稀有な文化人でした。

書の達人としては嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり)と並ぶ「三筆(さんぴつ)」の一人に数えられ、「弘法も筆の誤り」ということわざが生まれるほど、その腕前は広く知られていました。漢詩文や仏教思想書も数多く残していて、宗教者でありながら言葉と造形の両面で美を追究した人物でもあります。

ひとつの分野にとどまらず、自らの感性と知性すべてを通じて人々に何かを伝えようとしたこの多才ぶりが、空海の人物像にいっそうの深みを与えています。

弘法大師と空海の違い

弘法大師と空海は別人ではなく、同じ人物を指す呼び名です。

「空海」は本人が生前に名乗った僧侶としての名前(法名)であり、「弘法大師」は亡くなって86年後の延喜21年(921)に醍醐天皇から贈られた諡号(しごう)です。諡号とは、生前の功績をたたえて死後に贈られる尊い称号のことを指します。

歴史的な人物として語られる場合や学問の文脈では「空海」とよばれることが多く、信仰の対象や民間の親しみを込めた呼び方では「弘法大師」や「お大師さま」とよばれる傾向があります。四国八十八ヶ所のお遍路では、巡礼者が「同行二人(どうぎょうににん)」として、常に弘法大師とともに歩むという信仰が今も大切にされています。

空海と最澄の関係性

空海と最澄(さいちょう)は同時代に活躍した二大僧侶ですが、開いた宗派と教えの方向性に違いがあります。

最澄は比叡山(現在の滋賀県大津市)にお寺を開き、「天台宗」という宗派を始めました。経典をしっかり読み込んで学ぶことを大切にする教えです。一方の空海は和歌山県の高野山に拠点をかまえ、「真言宗」を開きました。お経の言葉を唱えたり手で印を結んだりして、修行を通して仏とひとつになることを目指す教えです。

二人は延暦23年(804)に同じ遣唐使の船団で唐へ渡り、帰国後しばらくは手紙のやり取りをするほど親しい関係を続けていました。しかし、密教の教えを伝える進め方や、弟子の受け入れ方をめぐって少しずつ考え方がずれていき、後に距離を置くようになりました。同じ時代に違う教えを広めた二人は、その後の日本仏教を支える二本柱となります。

空海がすごいといわれる理由

空海がすごいといわれる理由は、大きく3つあります。

  • 唐から真言密教を持ち帰り、日本に根づかせた
  • 満濃池の修築や「綜芸種智院」の創設など、社会事業にも力を尽くした
  • 1200年以上経った今も信仰され続けている

ひとつの分野で名を残す人は珍しくありませんが、空海は宗教・社会・文化のすべてで一流の功績を残しています。1200年以上経った今もなお人々に祈られ続けていること自体が、空海の偉大さを物語っています。

まとめ|信仰・学問・暮らしを動かした空海の足跡

空海は、平安時代初期に唐から真言密教を持ち帰り、日本に新しい仏教の流れを根づかせた僧侶です。

高野山の開創や「東寺」の整備で真言宗の拠点を築き、「綜芸種智院」の創設や満濃池の修築のように、宗教にとどまらず教育や社会事業にも力を尽くしました。書や文学にも秀でた多才ぶりとあわせ、その足跡は信仰・学問・暮らしのすべてにわたります。

「空海が何をした人か」をひと言で表すなら、宗教の枠を越えて日本人の精神と生活の土台を築いた人物といえるでしょう。1200年以上経った今もなお、その存在は高野山やお遍路など、各地の信仰の中で人々に寄り添い続けています。


Photo:pixta

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