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卑弥呼はどんな人? 性格・功績・生涯までわかりやすく解説

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卑弥呼(ひみこ)はどんな人なのか、邪馬台国の女王として何をしたのか、全体像を知りたいのに情報が多くて迷ってしまいませんか? この記事では年表で卑弥呼の生涯を追い、邪馬台国や魏との外交、その人物像までをわかりやすく解説します。歴史的背景を知ると、おでかけがもっと楽しくなるはず!

Summary

卑弥呼はどんな人? まずは年表でチェック

卑弥呼がどんな人物だったのかを知るには、その生涯のおもなできごとを順番に追うのがわかりやすい方法。卑弥呼の生涯は、中国の歴史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記された記録が唯一に近い手がかりとなっていて、ここに残された数十年分のできごとから、その姿を立体的にとらえることができます。まずは、卑弥呼の歩みを年表で確認しましょう。

  • 200年頃:倭国大乱を経て女王に共立される
  • 239年:魏に使者を送り「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を授かる
  • 243年:再び魏へ使者を送り親交を深める
  • 247年:狗奴国(くなこく)との抗争を魏に訴える
  • 248年頃:死去し巨大な墓が築かれる

それぞれのできごとについて、くわしく解説していきます。

200年頃:倭国大乱を経て女王に共立される

2世紀後半の倭国では、各地に「クニ」とよばれる小さな政治集団が100余りも分立し、争いを繰り返す「倭国大乱(わこくたいらん)」とよばれる動乱が続いていました。男性の王による統治では国がまとまらず、この乱を収めるために各国の王たちが共通の女王として擁立したのが卑弥呼だといわれています。

武力で頂点に立ったのではなく、宗教的な力を見込まれて選ばれた点が、卑弥呼の即位の最大の特徴といえます。

239年:魏に使者を送り「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を授かる

239年、卑弥呼は中国・魏へ朝貢の使者を派遣しました。これに応じて魏は卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与え、王として正式に認めています。

中国王朝から公式の地位を得たことは、卑弥呼の国内的な権威を高めただけでなく、倭国を国際社会の一員として位置づける転機にもなりました。卑弥呼の外交センスがうかがえるできごとです。

243年:再び魏へ使者を送り親交を深める

239年の朝貢から4年後の243年、卑弥呼は再び魏へ使者を送り出し、生口(せいこう:捕虜や奴隷)や倭錦(やまとにしき)などの貢物を献上したと記されています。

一度限りで終わらせず継続的に関係を維持しようとした姿勢から、卑弥呼が外交を国家戦略として重視していたことが読み取れます。

247年:狗奴国(くなこく)との抗争を魏に訴える

晩年の247年、邪馬台国(やまたいこく)は南方の狗奴国との対立に苦しんでいました。男王・卑弥弓呼(ひみここ)との抗争が深刻化したため、卑弥呼は魏に支援を求め、これを受けた魏は張政(ちょうせい)という人物を派遣しています。

宗教的指導者にとどまらず、危機にあたって外部との連携を図る現実的な統治者でもあったことが、この一件からよくわかります。

248年頃:死去し巨大な墓が築かれる

卑弥呼は248年頃に亡くなったとされ、死後には権威にふさわしい巨大な墓が築かれたと伝えられています。しかし、卑弥呼の死ですぐに倭国が安定したわけではありませんでした。

一度は男王が立てられたものの国内は再び乱れ、最終的に一族の壱与(いよ)が女王に立てられたことで、ようやく事態が収まったとされます。死後の混乱は、卑弥呼という個人の存在がいかに邪馬台国の秩序を支えていたかを逆説的に物語っています。

邪馬台国はどんな場所? 

邪馬台国は、卑弥呼が女王として治めた倭国最大級のクニで、30余りの小国を束ねる連合国家でした。中国の歴史書『魏志倭人伝』に詳しく記録されていて、当時の日本列島で最も整った社会のひとつだったと考えられています。

ただし、邪馬台国がどこにあったのかは現在も決着がついていません。現在の奈良県周辺にあったとする「畿内説」と、北部九州に求める「九州説」が有力で、卑弥呼の実像にも関わる古代史最大の謎のひとつとして議論が続けられています。

『魏志倭人伝』って?

本棚

『魏志倭人伝』は、中国の歴史書『三国志』のうち『魏書』第30巻「東夷伝(とういでん)」のなかで、倭国(当時の日本)について書かれた「倭人」の条を指す通称です。3世紀後半に、陳寿(ちんじゅ)という歴史家がまとめた書物で、約2000字の中に倭国の地理や風俗、卑弥呼の朝貢や死までが記録されています。

同時代の日本側にはまとまった文字史料が残されていないため、卑弥呼や邪馬台国の姿を知るうえで魏志倭人伝はほぼ唯一の手がかりです。卑弥呼が「どんな人」だったのかを今に伝えてくれる、最も重要な原典といえます。

「親魏倭王」の称号

「親魏倭王」とは、239年に魏の皇帝が卑弥呼に与えた称号で、「魏と親しい倭の王」という意味をもちます。あわせて金印紫綬(きんいんしじゅ/紫の組紐付の金の印)や銅鏡100枚、絹織物などが下賜されたと記されています。

この称号は単なる名誉ではなく、魏が卑弥呼を倭国の正式な王として公認したことを意味します。当時の東アジアでは、中国王朝に認められることが国際的な権威の証でした。日本列島の指導者が中国王朝から「王」と公式に認められた最も古い例のひとつで、歴史的にも大きな意味をもつできごとです。

卑弥呼の死と墓にまつわる謎

卑弥呼は248年頃に亡くなったとされていますが、その死因は『魏志倭人伝』にも記されていません。狗奴国との戦いの最中だったことから戦乱に巻き込まれたとする説、病死説、皆既日食による権威失墜が関係したとする説など、さまざまな見方が今も議論されています。

墓については、直径100余歩(およそ150m前後)の大きな塚が築かれ、100人以上の奴婢が殉葬されたと記録されています。場所は特定されていませんが、奈良県桜井市にある箸墓古墳(はしはかこふん)が最有力候補のひとつとされています。築造時期と規模が記述と重なるためですが、確定にはいたっておらず、邪馬台国の所在地論争とも結びついた古代史最大の謎のひとつです。

卑弥呼の性格と人物像

卑弥呼のイラスト

『魏志倭人伝』に残された記述から、卑弥呼の人柄や暮らしぶりを読み解くと、いくつかの特徴が浮かび上がってきます。ここでは3つの側面から、卑弥呼の人物像を紹介します。

神がかりの力で国を治めた巫女的な存在

卑弥呼は「鬼道(きどう)」とよばれる呪術を用い、人々を惹きつけたと記されています。鬼道は占いや祈祷のような宗教的な行為と考えられていて、卑弥呼は政治家であると同時に、神と人をつなぐ巫女(シャーマン)的な存在でもありました。
武力ではなく宗教的権威で人心を掌握した点が、卑弥呼の統治スタイルを象徴しています。

生涯独身を貫き、弟が政治を補佐

卑弥呼は生涯にわたって結婚しなかったと伝えられています。実際の政治の取り次ぎは弟が担当し、卑弥呼自身は人前に出ることなく、宗教的な権威を保つ役割に専念していたとされます。
神聖性を保つために独身であり続けたとも考えられ、女性王ならではの統治のかたちがうかがえます。

1000人の侍女に守られ姿を見せなかった謎多き素顔

『魏志倭人伝』には、卑弥呼が1000人もの侍女に身の回りの世話をされ、ふだんは宮殿の奥に身を置いてほとんど人前に姿を見せなかったと記されています。男性で会うことを許されたのは、食事を運ぶ役と、言葉を取り次ぐ弟だけだったともいわれます。
徹底して神秘性に包まれた暮らしぶりが、卑弥呼の存在をいっそう特別なものにしています。

卑弥呼がすごいといわれる理由

卑弥呼が今もなお語り継がれ「すごい」と評価される理由は、おもに下記の3つです。

  • 戦わずして100余国を束ねた稀有な統治者
  • 日本人としてはじめて世界史に名を刻んだ人物
  • 中国皇帝から公認された日本史上初の王

男性の王ですら抑えきれなかった倭国大乱を、女性が祈りの力で収めたこと自体が世界史的にも稀有なできごとでした。さらに当時の超大国・魏と渡り合い、公式な王として認められた点は、卑弥呼の規格外さを物語っています。

そもそも卑弥呼は実在した?

「卑弥呼は本当に実在したのか」と疑問に思う人も少なくありません。実は、卑弥呼の実在を直接示す日本側の史料は今も見つかっておらず、『古事記』や『日本書紀』にも「卑弥呼」という名前そのものは登場しません(ただし『日本書紀』神功皇后紀には『魏志倭人伝』を引用する形で、倭の女王の朝貢が記されています)。

一方で、3世紀後半の中国の歴史書『魏志倭人伝』には卑弥呼に関する具体的な記述が残されていて、朝貢の記録や下賜品の内容は当時の魏の制度とも矛盾しません。そのため、卑弥呼に相当する女性の指導者が倭国に存在した可能性は高いと考えられています。ただし、実像が『魏志倭人伝』の記述どおりだったのかについては、今も議論が続いています。

まとめ|卑弥呼はどんな人だったか

卑弥呼は、倭国大乱を収めるために共立された邪馬台国の女王であり、神がかりの力で人々をまとめた巫女的な統治者でした。中国・魏との外交では「親魏倭王」の称号を授かり、当時の倭国を国際社会につなぐ役割も果たしています。

生涯結婚せず、1000人もの侍女に囲まれて宮殿の奥で暮らしたとされる神秘的な存在でありながら、政治と外交の両面で大きな功績を残した卑弥呼。邪馬台国の所在地や墓の場所など、人物像の細部については今もなお謎が残されていて、その謎こそが私たちを古代史の世界へと引き込み続けています。


Photo:pixta

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