決戦!本能寺の変 明智光秀ゆかりの地へ歴女旅【お城インスタグラマーKAORI】
こんにちは!お城インスタグラマーのKAORIです!私の今までの明智光秀の印象は戦国のカリスマ織田信長を突然殺した裏切り者で、卑屈で陰気なイメージでした。ところが光秀ゆかりの地を巡り、そこに伝わる光秀の逸話を見聞きする中で、義理堅く、人の為に動く感じの人という今までの裏切り者イメージとは全く違う光秀に出会いました。 だからこそ、光秀と信長の最後の一年にスポットライトを当て、何故光秀が信長を裏切ったのかを解明すべく、戦国時代最大の謎と言われている「本能寺の変」の前後の出来事を紹介していきます!
お城インスタグラマーKAORI(@kaori_castlelove.jp)が、前回の「2020大河ドラマ主人公!明智光秀ゆかりの地」に引き続き、明智光秀ゆかりの地をご紹介していきます!
1. 何が悪かったのか!徳川家康の接待で大目玉!
順調に織田信長の天下統一が着実に進む中、琵琶湖のほとりに安土城が築城され信長は安土城を居城(普段住むお城)としました。
安土城は安土山に築かれたお城で、入り口から石段が山頂まで続きます。山頂までは徒歩で登るしかなく、ゆっくり見ていると1時間ぐらいかかります。石段の幅や高さも結構あるので冬以外は汗だくになります。
残念ながら安土城の建物などは一切残っていませんが、石垣や道は整備されていてお城の雰囲気はかなり楽しめます。
さらに信長がいた時代の安土城が見られる「ストリートミュージアム®(http://www.streetmuseum.jp/index.html)」という無料アプリがあり、音声ガイドと安土城復元VRでさらに安土城を楽しむことができます。しかも2019年11月末には復元VRを見られる場所が5ヵ所増えて楽しみが倍増しました!私が行ったときはまだ増える前だったので、また行きたいです!
さて、順風満帆に出世街道を進んでいるように見えた光秀ですが、徳川家康を安土城に招いて接待するというイベントで信長の逆鱗に触れてしまいます。
信長から家康を接待するように言われた光秀は最高級の食事でもてなしましたが、そのもてなし方が信長の思っているものと違っていたため、大勢の家臣たちが居並ぶ中で大叱責されてしまいます。
しかもその後、信長軍で同格だった秀吉の下について戦いをサポートするように命令されます。同格であるはずの秀吉の下につくということは、かなりプライドが傷ついたことでしょう…。
2. 悲しい戦準備
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)のサポートに回るように言われた光秀は、軍隊の拠点だった丹波亀山城から援軍に向かう準備を行いました。
現在の丹波亀山城はお城の中心部分の石垣が僅かに残るのみで、お城を雰囲気を感じられる場所はほとんどありません。ただ、天守台の石垣は下の方三段ほどは光秀時代に組まれた石垣とのことなので、その部分の石垣だけ触ってみました。
私、当時のモノが当時と同じ場所にあって、触っても大丈夫な場合触りたくなるんですよね。なんとなくですが、モノと場所が同じだと過去と繋がっているような気持ちになります!
丹波亀山城から秀吉のいる岡山に行くためには丹波亀山城から兵庫を通っていきますが、丹波亀山城を出発してしばらくすると光秀は京都市内に向かう道を通るように部下に伝えます。これが有名な「敵は、本能寺にあり!」の場面です!!
【御城印】300円(大本万祥殿・総合受付)
3. 敵は本能寺にあり!「本能寺の変」勃発!
その頃、信長は京都での定宿だった本能寺にわずかな人数の護衛のみを連れて宿泊していました。当時の本能寺は寺の周りに堀や石垣といったお城の防御設備が完備されていて、ほとんどお城のようなお寺でしたが、それにしても何故少人数で滞在していたのか、その理由についてはよくわかっていません。
現在の本能寺は京都の寺町通商店街に面していますが、注意して地図を見ていないとつい通り過ぎてしまうような入り口になっています。
入り口に比べると境内は広いのですが、境内の周りはすべてビルに囲まれています。「本能寺の変」があった場所はここではない(豊臣秀吉の時代に移転しました)のに、本能寺という名前とビルに囲まれた立地で、境内を歩いているとなんとなく不思議な場所でした。
1582年6月2日未明、本能寺を取り囲まれた信長は部下に「誰が謀反を起こしたのか」と尋ね、明智光秀の謀反とわかると「是非に及ばす(やむおえない)」と一言いったと伝わっています。この発言は光秀の性格や能力を知っている信長が、光秀が自分を殺そうと思って来ているなら逃れられないだろうとさっとったものと解釈されています。
そこまで信長に能力を買われていた光秀が信長を殺すことになるなんて皮肉ですよね…。
現在「本能寺の変」が起きたもともとの本能寺があった場所は、現在は住宅街です。地図を頼りに旧本能寺を探していましたが、住宅街の中に突然石碑を発見してびっくりしました!
なんせ住宅街なので、とてものんびりとした空気が漂っている場所で、とても信長や信長に付き従っていた部下の大半が亡くなった場所とは思えないのですが、石碑に書いてある文章を読み進めていくうちにだんだんと実感がわいてきます。
■本能寺跡
住所:京都府京都市中京区元本能寺南町
4. え?岡山にいたんじゃないの?! 中国大返し!
「本能寺の変」後、光秀はすぐに京都の治安維持と織田信長の居城安土城の周辺を自分の軍勢で制圧しました。これは光秀が主君を殺したことで、織田家の家臣たちからの仇討ちを想定した行動でした。光秀は織田家の武将達にこの事件が伝わり、京都まで戻ってくるのにはある程度時間がかかるだろうと思っていました。
ところが、中国地方に居た秀吉は「本能寺の変」直後にはもうその事実を知り、ものすごい勢いで京都に戻ってきました。この時の秀吉の素早い行動のことを「中国大返し」と言います。
私はこの秀吉の行動はもともと光秀が信長を裏切ると思って見張っていたとしか考えられませんでした。なんせ秀吉がいた岡山県の備中高松城から本能寺までは210キロもあり、この距離を大軍勢で帰ってくるのはものすごく困難なことだったと思います。
大山崎が戦場になると予想した光秀と秀吉は、それぞれの部下たちに天王山の占拠を命じますが、秀吉の方が一歩早く奪取したことから、その後の戦いを優位に進めることができたといわれています。
この山を制したほうが天下を取ることになるとして「天下分け目の天王山」という表現ができ、現在でもスポーツや政治などの重大な試合や局面の比喩に使われています。
現在の天王山は登山道整備されていますが、坂がかなり急で石やコンクリートがほぼない山道なので、階段だらけの安土城よりも疲労度は高かったです。
ただ、天王山は天下の行く末が決まった感慨深い場所ですし、幕末の「禁門の変」の志士のお墓もあるので歴史好きにはオススメの場所にです!
さて、今回の記事では信長を裏切った理由を大勢の前での叱責と秀吉の下につけるというプライドを傷つける出来事としましたが、本当にそれだけのことで大出世させてくれた信長を裏切るでしょうか?また、誰も援軍に来てくれずに秀吉の軍を迎え撃つことになりましたが、何故誰も援軍に来てくれなかったのでしょうか?
この二つのミステリーを2020年大河ドラマでどのように表現されるのか楽しみです!
text/photo/model:お城インスタグラマーKAORI
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