孤立無援の山崎の合戦!明智光秀ゆかりの地へ歴女旅【お城インスタグラマーKAORI】
こんにちは!お城インスタグラマーのKAORIです!主君・織田信長を裏切った光秀は、自分の味方だと思っていた武将たちに裏切られ孤立無援の状態で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の大軍勢と戦うことになってしまいます! 私は光秀ゆかりの地を訪れたことにより、光秀に関する資料や言い伝えに触れ、今までもっていた「裏切り者」というイメージからは程遠い、優しくて人間味あふれる光秀に出会いました。そんな光秀がどのようにして最後を迎えるのか、今回は「3日天下」と言われた光秀の最後の戦いを紹介していきます !
Summary
今回、KAORI(@kaori_castlelove.jp)がご紹介するのは、孤立無援の山崎の合戦!!前回までの「明智光秀ゆかりの地」についてはこちらをどうぞ!
1. 光秀最後の戦い「山崎の合戦」
光秀は信長の訃報をいち早くキャッチし主君のかたき討ちにやってきた秀吉との戦いに備え、天王山近くの勝竜寺城を急いで修築します。
勝竜寺城は周囲を水堀で囲んだお城で現在は資料館と隅櫓(お城の角に置かれる防御のための建物)を見ることができます。個人的には隅櫓がある石垣を登って白い壁と隅櫓が入るように撮影すると、まるで戦国時代にタイムスリップしたような写真が撮れるので好きです。
秀吉が迫り窮地に立たされた光秀は、味方だと思っている武将たちに援軍を求めます。しかし頼りにしていた武将たちは中立の立場を取り誰も援軍に着てはくれませんでした。つまり光秀は2倍から3倍といわれる秀吉の軍と戦うことになったのです。
■勝竜寺城
住所:長岡京市勝龍寺13-1
開館時間:4月~10月 9:00~18:00、11月~3月 9:00~17:00
休館日:なし (12月28日から1月4日を除く)
入館料:無料
駐車場:あり
交通アクセス:公共交通機関…JR長岡京駅から700m(徒歩10分)
御城印:
〇通常版
➡勝龍寺城の名前の由来となった勝龍寺の住職、國定道晃師の筆による
〇限定版:毎月第2日曜日のみ販売
➡細川藤孝の書状から写した「勝龍寺城」の文字と、藤孝の直筆花押の写し。どちらも細川家の家紋の九曜紋を中央に配置
▶販売場所:長岡京市内の各観光案内所(3カ所/JR長岡京駅前・阪急長岡天神駅前・阪急西山天王山駅前)
※土日曜日は、勝竜寺城公園内でNPO法人長岡京市ふるさとガイドの会が販売
光秀は秀吉との決戦に備え恵解山古墳に本陣を置くことにしました。本陣とは大将である明智光秀がいる場所のことです。
光秀は前方後円墳である恵解山古墳の前方部と後円部の間を崩した堀を設け、敵が攻めてきても簡単に陣地に入り込めないようにしました。
今は5世紀ごろに作られた前方後円墳が復元されていて、子供たちが遊ぶのどかな公園になっていますが、この古墳からは銃弾などが発掘されているそうです。
私が行ったときは少年野球の子供たちが古墳の2段目をランニングしているところでいた。のどか公園もかつては戦いの最前線だったんですね…。
■恵解山古墳公園
住所:〒617-0836 京都府長岡京市勝竜寺30
開館時間:年中無休
駐車場:なし
交通アクセス:
・JR「長岡京駅」から徒歩約17分
・阪急バス「久貝」バス停から徒歩約4分
さて、秀吉が本陣を置いた天王山と勝竜寺城の間は当時沼地が広がっていた為、「山崎の合戦」は天王山から沼地を通る狭い空間で行われました。
川を挟んで対峙した秀吉と光秀は兵力、士気共に秀吉軍の方が高く、光秀は部下たちの奮戦もむなしく大敗します。
現在の山崎古戦場跡は高速道路の下のわずかなスペースに作られた公園の中にあります。
現在の山崎古戦場跡は高速道路の下のわずかなスペースに作られた公園の中にあります。住宅街の中にある公園からは天王山が真正面に見えて、そこに秀吉がいたのかと思うと、山の大きさと秀吉軍2~4万人という数の大きさも相俟って恐怖を感じました。1/3の兵力しかない明智軍の兵たちもきっと同じように思ったんじゃないかな…。
■山崎合戦古戦場碑(天王山夢ほたる公園)
住所:〒618-0091 京都府乙訓郡大山崎町字円明寺松田
開館時間:年中無休
交通アクセス:阪急電鉄西山天王山駅 下車徒歩 約11分
敗戦の光秀軍は勝竜寺城に戻りました。しかし城が小さく、全軍が籠城することはできず、中に入れないと悟った兵たちが次々と脱走していきました。
兵力の差もさることながら、主君・信長のかたき討ちという大義名分がある秀吉軍の方が勢いあったのでしょうか。
2. 「3日天下」
味方の武将にも裏切られ、自分の部下たちも脱走していき、重臣たちともはぐれてしまった光秀は体制を立て直すべく勝竜寺城から坂本城に向かいました。
坂本城は光秀最初の城で琵琶湖に面したお城でした。なんとこのお城は琵琶湖の中にせり出して作られていて湖に浮かんでいるように見えたそうです。
今はお城の名残はほとんどありませんが、坂本城跡から眺める琵琶湖と琵琶湖の奥に見える山々は光秀が見ていたものと同じ湖と山を眺めているのかと思うと感慨深いです。
しかし、勝竜寺城を出た光秀は坂本城にたどり着くことはできませんでした。勝竜寺城から坂本城に向かう途中(伏見)落ち武者狩りに会い、あっけなく命を落としてしまいます。
「本能寺の変」の勝利から「山崎の合戦」での敗北までがあまりに短いことから「光秀の3日天下」と言われます。
■坂本城
住所:大津市下阪本三丁目
駐車場:あり(坂本城跡公園P利用)
交通アクセス:公共交通機関…JR大津駅から江若バス下阪本下車、徒歩3分
湖西道路下阪本ICから5分
御城印:御城印シールあり(ホテルサンルート彦根内 売店コーナー)
3. 光秀に会える場所
落ち武者狩りにあったあと光秀の首は京都の秀吉の元に送られ、晒されました。墓所は最愛の妻、熙子と同じく滋賀県大津市坂本にあるある西教寺です。愛妻家だった光秀ですからきっとあの世では仲良く暮らしていることでしょう!
西教寺は山のふもとにあるお寺で、木造の建物が立ち並んでいます。今回の明智光秀とは関係ないですが、お城好きの私としては伏見城にあった御殿を移築した客殿が一番テンションあがりました!
光秀の供養については、時を経て光秀の子孫といわれる人物が京都建てた首塚もあります。
私は本能寺を見てからこの首塚に行きましたが、信長のお墓に比べると、西教寺やこの首塚も小規模な印象です。
■明智光秀首塚
住所:京都市東山区三条通白川橋下る東側梅宮町474-23
交通アクセス:公共交通機関…市バス「神宮道」下車徒歩約3分、地下鉄東西線「東山」下車徒歩約5分
信長への謀反により、裏切り者の汚名を被ることになった光秀ですが、光秀が治めていた土地では、政治の手腕に優れ、領民を愛した素晴らしい人物であったと現在でも偲ばれています。2020年大河ドラマでどのように表現されるのかわかりませんが、私は秀吉黒幕説が有力じゃないかなと思っています。
信長と光秀が新で一番得をしたのは秀吉ですし、「本能寺の変」が起きてから京都に来るまでのスピードも異常だったことも、もともと「本能寺の変」が起こることを知っていたのではないかと思えてなりません!
なぜ「本能寺の変」が起きたのか、なぜ「山崎の合戦」で味方が誰も援軍に来なかったのか。この二つの謎は今後新しい資料が発見されなければ永久に解けることはありません。
私はその新発見を楽しみに待ちながら、これからも歴史巡りに行ってきます!
text/photo/model:お城インスタグラマーKAORI
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